(No more.. おおきくなったら何になりたい?前編 のつづき)
質問をされると、私たちの脳は自動的に答えを探し始める。
脳はそう働くようにできている。
質問されると、私たちの中ではなにが起こるだろうか。
質問:一番好きな映画は? の場合
↓
「自分が一番好きな映画はどれだろう?」
↓
一番に答えるべく順位をつけなくては…
↓
これまでに観た映画を比べ、順位をつける
質問:おおきくなったら何になりたい? の場合
↓
「自分はおおきく(=大人に)なったら何になりたいのだろう?」
↓
おおきく(=大人に)なったら何かになるものなのだ
↓
何かになろうとする
= try to BECOME something else
質問の素
そもそも、その質問が言葉となって
口から出て来られたのはどうしてか?
表面意識には表れないのがほとんどだけれど、
心のどこかで信じていることが言葉となって出てくる。
心のどこかで信じていること。
例えば、
「人はみんな何か(=職業名)に”なる”ものだ」
「職業には呼び名があるものだ(花屋、保育士、パイロット、消防士、そば屋、看護師、ライター、植木屋 etc..)」
「大人になったら(=おおきくなったら)みんな、仕事をしなければならない」
「仕事をするのは大人になってからだ」
…こんなところだろうか。
繰り返しになるが、この心のどこかで信じていること。
それが 観念。
質問は質問者自身が持っている観念が素となる。
観念はいわば”質問の素”だ。
質問者に特定の観念がなければその質問を思いつくことすら、できない。
観念があるからこそ
自分が子どもの頃に大人にされた同じ質問を
今度は大人になり繰り返す自分に疑問も抵抗も感じない。
スーパー一般的な、これ以上他愛のないって質問だとしても、だ。
自分の口から出てくる質問や、
逆に他の人がする質問を聞いた時に自分がどう感じるか。
これらを観察してみると
自分がどこからか受け取り、持っている観念に気がつくきっかけになる。
そうだな。
わたしだったらよくこんな質問をする。
「お昼ごはん、何食べた?」
この悶絶ものの他愛のなさすぎる質問も観念から出てくる。
「1日に3食、朝ごはん・昼ごはん・夜ごはんを食べるものだ」
「食事には気を配るべきだ」
…こんな観念。
またある時は
他の人の質問に自分にはない観念や、自分の観念の変化をみることもある。
(妊娠中の友人に別の友人が聞く)
「もう赤ちゃんの性別わかったの? 男の子?女の子?」
わたしの心の声:
ふむ、わたしも以前はしていたはずの質問だけれど、今は思いつかなかったなあ。
…と、自分の観念が変化しているのに気がつく。
(出産時の贈り物にはジェンダーニュートラルな品を選ぶことにしている。これもまた観念からの選択だ。)
観念を持つのは自然なこと。
誰しもが数え切れない観念を重ねて生きている。
観念自体に良いも悪いもないのだけれど
もし、
もう自分の役に立たない観念に気がついたら
手放すのか
持ち続けるのか
選ぶ自由が私たちにはある。
子ども達に「おおきくなったら何になりたい?」って聞くだけだよ。
そんなに深く考えること?
自分も子どもの時に同じ質問をされたけれど、実際にお花屋さんになるわけでもないし人生に影響なんかしてないよ〜
…こんな風に思われる方もいると思う。
けれどお節介にもわたしは書いている。
きっときっと、役に立つ。
緩やかにつづく:職業ってなんだ – おおきくなったら何になりたい?後編