「〇〇ちゃんはおおきくなったら何になりたいの?」
「おとなになったら何になるの?」
保育園の先生たちが聞く。
幼いりさは経験から漠然と感じていた。
「この質問には、答え方のルールがあるんだ。」
そのルールとは、
性別が女ならば
お花屋さん・ケーキ屋さん・幼稚園の先生のほぼ三択。
マイナーなバリエーションとしてたまにパーマ屋さんなどが入ることがある。今なら美容師か。お嫁さん、ってのもあった。
男ならば
スポーツ系の野球選手・サッカー選手。
または乗り物系としてパイロット・車掌さん・バスの運転手さんなどだ。
4歳かそこらのりさの回答は「ケーキ屋さん」。
本当にケーキ屋さんになりたい、だなんて思ってはいなかった。
ただ、お花屋さんだとお花は食べられなくてつまらない。
どちらかを選ぶならばケーキを食べられる方が良いに決まっている。
それだけの理由と”答え方のルール”っぽい何か… に沿って振る舞ったにすぎない。
(近年も小学生へのアンケートで女子のつきたい職業ランキングがパティシエ・ケーキ屋さんが安定の上位らしいですね。)
「別に大してなりたかないけど、
何か彼ら(大人)を満足させる答えなくてはいけないようだし
他の子達も答えている。
とりあえず野球選手って言っとくか〜」
くらいのノリで答えた、かつての子どもも多いのではないか。
素朴にただただ謎なのだ。
生まれてから4、5年の人間たちが
いくつの職業名を知っているというのだろうか。
彼らに特定の職業名を挙げさせるって、
まったく一体、何の芸だろうか。
彼らの今日に、なにかしらの価値をもたらすのだろうか。
こんなことを書いて、わたしはまた「考えすぎだ」と言われるのだろうか。
質問の持つ力
質問をされると、私たちの脳は自動的に答えを探し始める。
脳はそう働くようにできている。
「大きくなったら何になりたい?」
…この質問は何を考えさせるだろうか。
何になりたいか?
何度も聞かれた多くの子ども達や
成長したかつての子ども達は
「自分はおおきく(=大人に)なったら何かに”なる”ものなのだ」
「将来何かに”ならなければならない”のだ」
…と心のどこかで信じるようになる。
自覚があるかどうか好むかどうかに関わらず、プログラムされる。
こうして心のどこかで信じるようになったこと。
これを観念と呼ぶ。
もちろん人によって差はあり、
観念を受け取らずに生きてゆく人もいれば
観念を受け取ったからこそ、それに反発する道を選ぶ人もいる。
就職活動の時期にあらわになったりもするかもしれない。