Home ラブの絵とことば - Visions & Words ”別れ”がさみしくない|だって永遠の別れは不可能DAYO!|信頼と祝福

”別れ”がさみしくない|だって永遠の別れは不可能DAYO!|信頼と祝福

by lisa shouda

わたし、幼い頃からあまり「別れがさみしい」と
感じたことがないのです。

なぜか?
それはある2つのことを直感的に知っていたから。
あるいは
魂の記憶として覚えていたから。
だと思うのです。

「ある2つのこと」とは…

◎ ひとつ
その人がここではない何処へ行こうとも、
行った先に本人にとってベストの状況、然るべき経験が待っている。
(本人の表面意識(エゴ)がわかっていても、いなくても)
自分の意志で、自分で選んだようになっている

◎ ふたつ
そもそも「もう逢えない」わけがない。
なぜなら永遠の別れなんて不可能だから。
なぜならなぜなら!わたし達は永遠の存在だから。
いつか会いたい思えば、会える。


ひとつめのこと、
行った先に本人にとってベストの状況、然るべき経験が待っている
と感じるのだから、
物理的な別れの時がきたらば
どちらかというと
祝福/の気持ち。

小学生の頃(9〜10歳くらい)
よく遊んでいた子が
引越して遠くのまちへ行くと知ったらば、

「そうか、行った先で
あなたの素晴らしい人生がつづくんだね」
という気持ちをいだいていたのでした。

ふたつ目のこと、
永遠の別れなんて不可能」と感じるのだから、
「もう逢えないなんてさみしい!悲しい!」なんて同時には感じられない。

これらの感覚は幼い頃だけでなく
ティーンエイジャーになっても
おとなになってからも変わらず。

だから、
友人たちが北海道ではない別の島や
日本ではない別の大陸などへ
住処をうつすことになったときも、

わたし自身が逆の立場のときでも、

「アナタとワタシ、離れるなんて!心からさみしいよお〜」的な
そぶりをみせたり
フレーズを言ってみせたりしたことは
ほぼ、ない。とおもう… 記憶のかぎりですが。


それはもしかしたら、
ある人の視点を借りれば
「なんだ、りさちゃん全然さみしそうにせず、飄々と。
つめたいなあ
な〜んてうつるのかもしれませんね。

わたしが”別れ”の現場に見るのは
友人であれ自分であれ、
人生の体験への
信頼と「祝福」です◎

わたしにとって
「’物質的な体’が
同時にある部屋に存在し’対面’すること」は
それほど、重要ではないようです。

いや、
できるのなら会って語らうこと、
集ってみんなの顔をみながらふわふわやっていられるなんて
最高に楽しいのですよ!


ただ、「絶対に、何がなんでも会わなければならない」の
「絶対」感がないだけ。

だって…
やっぱりこれ、ほんとうですもの…

永遠の別れなんて不可能。
わたし達は永遠の存在だから。


今夜もみなさまに永遠の愛を♡

♡ Eternal-Love from Lisa and Higher-self ♡

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