わたしが生まれてから今まで、苦しめられ続けてきたもの。
それは
自分のこころ!!!
ダントツこれでしょう。
存在していることが、苦しい。
消えてしまえれば楽になるのだろうけれど
痛いのは嫌なので自分の身体を傷つけるとか、自分で命を終わらせる選択肢はない。
生き続けるしかない。
けれど生きるのは苦しい。
だから、
どうしたら少しでも生きるのが楽になるのだろう?
そればかりを探し、考え、模索して生きてきた。
10歳を過ぎた頃から始めたので人生の大半を費やしていることになる。
わたしにとって、
生きるのを楽にしてくれる”ものの見方”=お役立ち道具だ。
役に立ちそうな道具をひとつひとつ見つけ、試し、
「この道具、いいね。採用!」
そう自分の道具箱へ仕舞い、時に忘れ、再発見する。
その繰り返し。
その源は本の言葉であることが多く、時に講演会や映画やテレビ番組だったかもしれない。
インターネット上へ動画をアップしてくれている方々もいる。
皆さんが役に立つことを発表してくれるなんて有り難い!
約20年間の研究?と実践の成果がようやく実ってきたのか、
気付けば生きるのがずーーーっと楽になっている。
道半ばではあるけれど、振り返ると沢山を学んだ気がする。
わたしにとって何が役に立っているのか、または役に立たなかったのか、
ここらで道具箱の中身を記録していておいてもいいんじゃないかと思った。
天動説から地動説への転換 〜メンタル編〜
この『お役立ち道具』を初めて見つけたのは、いわゆる不登校のわたしに悩んだ母へ知人に勧めた本の中と記憶している。
20年も前に知ったために、わたしにとって当然のことに感じられ、
「…それなら既にみんな知っているかもしれない。わざわざ書くほどではないのでは?」という気も正直した。
でも!おかげでわたしが生きるのが楽になった”ものの見方”なので、せっかくだから書いてみる。
件の本はいま手元になく、著者の言葉そのものではないけれど
書かれていたのはこういう意味のこと。
あなたを
悲しませる現象、
喜ばせる現象、
怒らせる現象、
楽しませる現象…
これらは存在しない。
…… はあ???
これが初めて読んだ時、20年前のわたしの反応。
まだ続く。
あるのは、悲しむ、喜ぶ、怒る、楽しむ”あなたの心”だけ。
わかりますか?ふふふ(←こういうノリだった気がする)
日本語としてはわかるけど、
意味が全っ然わかんないんですけど!
あの嫌な奴が、嫌な態度で、嫌な言葉を言ってくるのは、わたしを怒らせる出来事=現象だ。
わたしが怒るのは当然!
そう信じていた。いや、信じるかどうかの前に疑いがかすったことすらなかった。
それがどうも、違うらしい。
「嫌な奴」は存在せず
「嫌な言葉」も
「嫌な態度」も
「怒らせる出来事」もないという。
例えば、
体型についてある人物にこう言われるとする。
「細いですね」
…どう感じるだろう。
嬉しい? 悲しい? 楽しい?
細身体型がコンプレックスがために、週6回ジムに通い身体を大きくしようとヘビーウェイトで鍛え食べているとしたら
ショックを受け、しかも悔しいかもしれない。
または
太めの体型=ネガティブ。細めの体型=ポジティブ。…という意味づけをしている人なら
細いと言われた。褒められた、嬉しい。
と感じるかもしれない。
…たしかにそうだ。外の現象や出来事には動かせない意味はない。
100%が受け止める側の問題。
90%でもなく、99.999%でもなく、
世界は100%わたしの見方で決まる。
認めた瞬間、世界が丸ごとググッと動くのがわかった。
天球の角度がシフトし、見えるものものはほとんど同じようだが、もう同一のものではない…と言うかんじ!
世界の見え方が永遠に変わった。
これはいわば…
『天動説から地動説への転換 〜メンタル編〜』
わたしの外側に原因があったことはこれまで一度たりともなかったし
これからもそう。
わたし自身の心が唯一の原因。
原因がわたしなら、わたしは自由。(ここ大事!)
なんの関係もない
ちょっと言葉を変えてみる。
わたしを幸せな気持ちにする人はいない。
嫌な人もいない。
楽しい人もいない。
現象とわたしがどう感じるかにはなんの関係もない。
ただただ、関係がない。
- 雨が降っている
- 贈り物をもらった
- 包丁で玉ねぎを切っていたら自分の左小指も切った
- 家の目の前で花火大会
これらの現象をどう感じるか。
どう反応するか。
それは本人の自由。
その日どころかその瞬間の気分やちょっとしたきっかけで、
同じ現象への反応・感じ方が変わるのって、
誰もが日常で体験している当たり前のこと。
当たり前のことだけれど、
気付く
自分を観察する
この違いが景色の違いになった。
(ここではあえて「人それぞれ」では片付けない。便利だけれど、メタレベルが異なるし思考停止スイッチにもなり得るから)
地動説が唱えられるようになってからも、地球が宇宙の中心だと信じたい人々がいたように(現代にもいる)
疑ったことのない概念を覆すには抵抗がつきもの。
薄皮一枚のやつ
世界の見え方が変わった後もわたしはまれに人を嫌ったし、
環境や出来事を恨み続けた。
忘れて、思い出して、フラストレーション。
何百回やったかわからない。
でも身体を鍛えるのと同じで、精神も継続がものをいうようで
続けていたら、15年後、20年後には見える景色が変わっているのに気づいた。(かかったな〜)
あーなんか生きるのが楽になってる。
お役立ち道具は役に立つなあ。
ちいさな頃は自分が存在しているのが苦しかった。
いまはこの瞬間、肺が空気を含み吐き出すのが楽しい。
なんだか長くなったので続きはまたのポストにします。
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